中学生への登校拒否宣告~中卒以下の学歴を手にした僕~/足立博ヒストリー~小卒が社長になるまで~第二章

小卒が社長になるまで。第二章「中学生への登校拒否宣告」

僕は地元中学に再び戻る事になったのだったが、その時誓約書を読まされサインした。


どんな内容かというと『学校を無断で休んだり、警察に補導されたら再び教護院に戻らなければならない。』というような事が10項目程あり、それを読んでサインするのだ。


それを破ると再び教護院に逆戻りになる、という訳である。


でも、僕は真面目になるどころか、さらにパワーアップして以前よりもエスカレートしていった。


何しろ誓約書のルールを破れば、また教護院の生活に戻り仲間にも会えるのだ。


誓約書は、二度とあんな場所に入るのはゴメンだ!という人にしか効果がまったくないのだった。


僕は、学校に行ったのは最初の一ヶ月ほど。


それは教護院生活の話を友達たちにするという目的のためだけだった。


悪友たちは教護院内に興味津々だった。


中には教護院内の事を知りたくて、教護院に入って居る時に、僕に手紙を書いてくれた奴も居た。


教護院を出るその日に僕はそれを知り、その手紙を院長先生から見せられたのだが思わず苦笑いして目を覆いたくなってしまった。


なぜなら、それはすべての文面が赤のボールペンで書かれていて、「久しぶり!元気!?この前、○○を殴ってやったらさぁ、、、」というような幼稚な内容がズラズラと書いてあったからだ。


『そりゃ、俺の手元には届かない訳だ。』教護院では、内容をすべてチェックして、心をかき乱す内容が書かれている手紙は『寮生に相応しくない』と、教護院側で保管されるのであった。


まさに絵に描いたような“模範的に相応しくない内容”の手紙を書いた友達に、『あいつらしいな。


空気が読めないって子供っぽいなぁ』と感じたのだった。


返事を書く以前の問題だった。


でも、僕に手渡されているとばかり思っている友達の気持ちは嬉しかった。


地元中学校には昼の給食の時間に、私服を着てタクシーで学校に行ったり、禁止されていた自転車通学をしたりとやりたい放題だった。


しかも自分のクラスには行かず、悪友のクラスで給食を食べながら教護院生活を話終えたら帰るのだった。


それでも、先生達や他の真面目な子たちとも、話すので煙たがられてはいなかった。


他の生徒たちの邪魔になるような授業を妨害したりはしなかった。


悪友が、そういう事をすると逆に怒っていた。


『おい!他の子たちの邪魔するな!』と。


僕には自分の中にルールがあった。


『悪友以外の生徒や先生に迷惑をかけない。』というものだ。


この頃、“俺は他の奴らとは違う”と常に思っていたので、差を見せつけて目立つ為にこういう事していたのだが、本当は誰よりも弱くて、誰よりも臆病だった。


だから、こういう事をして、その臆病さや弱さを覆い隠していたのだった。


でも、自分だけは騙しきれなかった。


自分の弱さを認めない限り、偽りの自分を繰り返してしまう。


中学生への登校拒否宣告

そんな中、ある人物だけが密かに僕を煙たく思っていたのだった。


それがやがて、その立場を利用して僕に襲いかかって来たのだった。


それは校長先生だったのだ。


春が過ぎ、夏にさしかかった日差しのきつくなったある日の午後、僕が悪友たち10人程で喋っている時だった。


凄い形相でこちらに歩いて来る人が居た。


「お前が、学校に来ると他の生徒に悪影響だ!もう学校に来るな!」


校長だった。


後ろには知らない大人たちが3人居た。


PTAの人間だという事が後になって分かった。


僕の隣にいた悪友たちがすぐさま食ってかかった。


「なに!?おい校長!!お前がやめろ!黙って帰れ!」


僕は、すぐに悪友を遮った。


なぜなら、校長先生が正しいからだ。


当時の中学校は荒れに荒れていた時代だ。


この学校だけではなく、校内暴力は当たり前の時代だった。


僕は他の生徒に迷惑をかけているつもりもなかったし、実際誰とでも喋って僕を見て怖がる生徒は誰もいなかった。


でも、校長先生の立場というものがある。


僕が好き勝手にやって、PTAや教育委員会で、必ず僕の話題になる事は担任や生活指導の先生から聞かされていた。


僕の事を知らない人達からしたら、僕のしている行動を理解してもらえる訳はない。


校長先生には、この学校を守る義務もあるし校長としての面子もある。


今になって思うのは、荒れ狂っていた中学校の中で、目立ち過ぎる僕を触らぬ神に祟りなしと見て見ぬ振りをしなかっただけでも立派な人だという事。


そして僕はこの日で中学を辞めたのだった。


僕は嬉しかった。


『やった!これで教護院に戻れるぞ。』


中卒以下の学歴となった僕。~救いの手と就職~

僕が中学校を中退したという噂は、あっという間に広がった。


狭い地元、当たり前だ。


でも、僕は恥ずかしくもない理由が二つあった。


一つ目はあの厳しいけど自分を高められる教護院に戻れるという事と、もう一つが普通の人生じゃないというところだった。


みんなと同じ事が本当にイヤだった。


悪友達がタバコやシンナーを吸っても僕は吸わない。


カッコイイとも思わなかった。


みんなと同じ制服にも個性が感じられず私服で行ったりする、普通ではない人にこだわった。


でも、僕の目論見は甘かった。


まず、教護院には戻れなかった。


児童相談所の担当の先生に『誓約書のルールを違反したから戻りたい。』と、直訴したが『望んで入る人など居ない』と聞き入れてはもらえなかった。


この時僕の最終学歴が“中学中退”となってしまった。


そんな時、地元の中華料理屋さんの大将が「足立、お前学校クビになったんなら、ここで働くか?」と、声をかけてくれたのだ。


「最初は皿洗いからだし給料も安いぞ!」


僕はその大将が大好きだったので、すぐに「本当?やるやる!」と返事をして僕は中学三年生で誰よりも早く大人の社会で就職したのだった。


僕の仕事は皿洗いと餃子の仕込みと油まみれの店の掃除だった。


威勢のいい大人たちの中での仕事は、毎日大変だったが活気があって楽しかった。


大将は、僕をとても可愛がってくれた。


時には父のような存在でもあり、時には兄のように感じる事もあり、また時には友達という感じでも接してくれた。


僕も隠し事無く何でも話した。


そんな僕を気に入ってくれたのか、大将はまだ中学生の僕を毎日、仕事が終わるとスナックに連れて行ってくれては、大人の世界を肌で感じさせてくれた。


そこは僕にとってとても楽しく、大人の世界を知る唯一の場所になった。


みんな大将の知り合いばかりで主に20代から30代前半の大人が集まっていた。


女の人は20代前半の看護婦さんたちがお客さんでよく来ていて、みんな綺麗だった。


僕は大人の女の人に緊張気味だったが、「この子?15才の子って!可愛い!」と、いつも可愛がってくれた。


男の人たちは、みんな元暴走族あがりの人たちだったが、日曜日や昼休憩の時には一緒にご飯を食べに連れて行ってくれたり、バーに連れて行ってくれたり、ドライブやツーリングにまで僕を連れて行ってくれた。


大人たちが、僕を一人の男として接してくれたように感じて、『もう、俺は大人なんだ。』と勘違いし始めていた。


中卒以下の学歴となった僕。~仕事と日常~

ある日、僕をどこにでも連れて行ってくれて、弟のように可愛がってくれていた10歳年上の人と、その人の会社で待ち合わせの約束をした。


僕は約束の時間に1時間くらい遅れてしまった。


可愛がられていたので、『何をしても怒られる事はない』と思い込んでいたのか、僕は悪い事をしたという認識がまったく無かった。


すると、僕の態度にその人がキレた。


「おい!足立、いい加減にしろ!時間を守れない奴は、大事な約束でも簡単に破る奴だ!」と、凄い勢いで叱られた。


約束の時間に僕が行かなかったから、他の人との約束までもが果たせなくなり、その人の顔に泥を塗るはめになってしまったようだった。


それでも僕は反省するという事よりも、『何で遅れたのか』という事を必死で説明して、なんとか許してもらおうとしたが何を言っても結局最後まで許してはもらえなかった。


挙げ句の果てに飽きれられて「お前、全然反省してないな。それ全部言い訳だぞ!!」とさらに怒らせてしまった。


それでも、遅れた理由があるから『俺は悪くない』と、ずっと自分の責任ではないと訴え続けた。


「謝る事もできんのか?それに遅れるなら電話しろ。」と言われた。


『そりゃそうか。』と僕は自分の無責任さに初めて意識を向けたが、時既に遅しだった。


最後の最後まで態度を変えなかった僕に、さじを投げたのだ。


その日から、あれだけ可愛がってくれていたのに、相手にされず、どこにも連れて行ってもらえなくなってしまった。


言い訳をする、という事は「自分は間違っていない、自分の責任ではない」と言っているのと同じだ。


言い訳に気づき、すべて自分の責任だという考え方にすれば、それだけ人としての成長があるはずだ。


『言い訳は、成長を妨げる』という事をこの時、大切な関係との破綻という形で学んだ。


兄のような大切な存在を失ってしまった。


なんて俺は馬鹿だったんだ、と悔やんでも悔やみきれなかった。


中卒以下の学歴となった僕。~仕事と夜遊び~

僕はその後、先輩から5万円で売ってもらった400ccのバイクを乗り回すようになった。


風になった気分。しかも無免許運転でヘルメットもかぶらず爆音を轟かせては町を走った。


でも、近所の人には「おばさん、こんにちは!」と笑顔で挨拶をしっかりしていたので、みんなの人気者だった。


色を塗り替えると「博君、いい色になったねぇ~」と、気軽に声をかけてくれた。


「でしょ~?塗るのが大変だったんだよ。」僕はまわりのみんなに愛されていた。


が、しかしその一方、毎日朝帰りを繰り返し、何度か中華料理屋の営業時間に間に合わず、みんなに迷惑をかけてしまった。


大将は「はっはっは!若いうちだけだぞ~!」と、笑って許してくれていたが、他の従業員の人達にこっぴどく叱られて、お灸を据えられたのだった。


「おい足立!仕事をなんだと思ってるんだ!?遊びじゃないぞ!」


僕は『こりゃダメだ。ここのみんなには迷惑をかけられない。』と思い、一年半程お世話になった中華料理屋さんを辞めてしまった。


大将達が大好きだったからこその決断だった。


遊ぶのをやめればそれが一番よかったのだが、それはこの時の僕には無理だった。


今だにその人たちとは、ずっと付き合いが続いている。


先輩達とオートバイを乗り回し、朝まで遊ぶ事が何よりも楽しい生活へとライフスタイルを変えて行った僕は、『次は、朝寝坊しても心の痛まない、知らない人のところで働こう』そう心に決めた。


そして、次の仕事もなんと先輩のお父さんが営んでいた防水工事屋に就職した。


『先輩のお父さんだけど、直接知ってる訳じゃないからま、いっか。


心も痛まないだろう。』と、変に自分を納得させた。


給料も中華料理屋さんでは当時十万円ほどしかなかったが、ここでは、二十万円程もらう事ができるのだ。


しかも、願いが叶ったのか面白かった条件があった。


ここの社長が「まだ若いから、朝まで遊ぶだろ?だから、毎日朝の六時半にここに来てなかったら、俺たちだけで現場に行くからな。若いうちは思う存分遊べ。」と言ってくれた。


朝起きれない日は、いちいち電話して「今日、休みます。」と言わなくてもいいのだった。


『これで、罪悪感もなく心も痛まず朝まで遊べる!』その日から毎日思い切って遊ぶ事ができた。


『明日の朝早いからなぁ』なんて考えずに遊べるのだ。


朝起きれたら仕事に行って、起きれなかったら罪悪感を感じる事なく仕事が休める。


最高の職場だった。


でも、これが不思議な事に、このシステムにドップリッと甘える事はなく、案外真面目に仕事に行ったのだった。


中卒以下の学歴となった僕。~不良達のオアシス~

毎日、先輩の家に溜まった。


離れになっていて、何をやってもひと目につく事はない場所だった。


毎日そこには、不良たちが集まり多い時には二十人くらいが集まった。


当時の僕は十六歳。


先輩達は、シンナーを吸ったりしていたが、決して僕は吸わなかった。


先輩達も僕に吸えとは言わなかった。


溜まってはマンガを読むか、話をするかのみ。


それに飽きると「どうする?」誰かが言い出すと決まって夜な夜なご飯を食べに飲食店に行った。


食後は地元の小高い山に澄んだ空気を吸いにバイクで行った。


みんな改造バイクなので爆音を響かせ山に行くのだ。


近所迷惑にはならないが、誰に爆音を聞かせたかったのだろうか?それともみんな、ただのロマンチストだったのだろうか?日曜日だけは、このメニューにホームセンターの物色とボーリングが加わった。


こんなローテーションの生活が365日続いた。


僕は1日も休まずそこに行った。


中学をまともに行けなかった僕が皆勤賞だった。


そのたまり場に行けば誰かが必ず居る。


昼間に行っても誰かが居る不良達のオアシス。


安心感はそこで手に入った。


実はみんな不安で仕方なかったのだろが、みんなと一緒の安心感が、その不安から目を反らさせていたと思う。


でも、そんな毎日が1年が過ぎ2年目を迎えた時に、普段は鍵のかかっていた心の中の扉が急に開き、今までに感じた事のなかった感情が僕を覆った。


『なんだろう?この感覚は』と、その感情に身を任せてみた。


するとある思いがすぐそこまで出て来ている事に気づいた。


『このままでいいのか?』と、問いかけているようだった。


『もう一人の自分だろうか?』


僕はその思いがどこかへ行ってしまわないうちに、掘り下げて必死で考えた。


ダラダラとした何も成長の望めない同じ毎日の繰り返し。


『このままではいけない。変わらなきゃ!』


その時16歳の僕は、今までになくかなり真剣に考えた。


変わるために僕はまず、『一人の時間が必要なのではないか?』と思い、今からの1年間のうちに、一人でいる日を作って自分を見つめてみよう!と決意したのだった。


『この溜まり場に来るのを減らそう!』


そう心に決めたのだった。


中卒以下の学歴となった僕。~そして1年~

そして1年が経過した。


経ち振り返ってみて驚いた!


『これが俺の実力だ!』


1年のうち、一人で居た日はたった2日間だった事に愕然とした。


この1年で変わった事?まるで無し。


相変わらず同じ日々の繰り返し。


みんなと一緒で安心感があるはずのダラダラした生活は、ただのぬるま湯で単調な毎日だった。


刺激の無い毎日で、ワクワクする気持ちがめっきり無くなっていった。


『人はワクワク感やドキドキ感のような刺激がないと、やがてそれは忘れてしまうようだった。』


刺激と言えば、たまに来るヤクザをしていた怖い先輩達が「おい、お前ついて来い!」と、誰かがドラフト指名され、連れ回されるロシアンルーレット的な週に1回ほどの恒例行事があった事くらいだった。


連れ回されると、何日も帰れない日々が続く事もあった。


それ以外は『一般的で平凡な不良の過ごし方』というマニュアル本が書けるような日々が続いていた。


こんなドキドキ感は要らない。


1年前に決めた“一人の時間をつくる事”がまったく守れない自分に心から腹が立った。


『俺は何を決意しても長続きしないダメ人間だ。寂しがりやで甘えてる人間だ。なんて意思が弱いんだ!』


僕は再び『変わりたい!』と今度は1年前よりももっと本気で思ったのだった。


『よし!変わってやるぞ!』と決心した。


そのモチベーションを毎日維持しておけば『人は変われる』と考えて実行してみたのだった。


『“今”は過去の結果』常に自分がそれまでして来た事が、今を作り出して反映されている。


常にその繰り返しで人は出来ている。


『今日から絶対に変わるぞ!!』


本気の決意だった。


僕はこの時、今度こそ変われる!と思っていたのだった。


中卒以下の学歴となった僕。~17歳~

僕は17才になりかなりの月日が経っていた。


普通なら高校にすすみ、自分の将来を見据えた勉強なり心構えなりをしている頃だろう。


『俺は何をやっているんだ?』


僕は変わる決心をした後、その気持ちが保てたのは“たったの2日間”だけだった。


『人は変われないのかな?』と本当にそう思った。


“人はどうやって変われるんだろう?”


結局毎日同じように先輩のうちでみんなと一緒に溜まっていた。


どうしても周りに自分と同じような人間が居るとそちらの楽な方へと流され安心してしまう。


そこから出ようと思っても一人ではなかなかそれができない。


それが正解かどうかも分からなかった。


同じ考え方のみんなと一緒だと、その生活が間違っていたとしても、少なくとも僕一人じゃない、仲間達も一緒、みんなで間違うんだから不安も無いし怖くもない。


それが一番安心なのだ。


でも、心の奥で声がする『このままでいいのか?』その声を無視するかのように僕は毎日安心で楽な方を選んでここまで生きて来た。


それが今という現象になって現れているのに。でも、もう限界だった。


どうすればいいのか分からないが限界だという事は分かっていた。


『このままでいいのか?』


僕は、心の声を無視する事ができなくなっていった。


こんなダラケている楽な生活にどっぷり浸かってしまうと、底なし沼のように今度は出る事が困難になってしまう。


中学生で格好をつけてタバコを吸い始め、大人になっても止められないのと同じように、中毒になってしまうようだった。


この生活に何か不自由がある訳ではなかった。


みんなと居て楽しいはずなのに「何か楽しい事無いかな~」と、みんながよく口にしていた。


“楽しいってなんだろう?”


衣食住すべて揃っている日本で、幸せボケを起こしていただけだろうか?


バクテリアは何不自由無い住みやすい環境で過ごすと、やがて弱くなり死んでしまうという。


その逆に、過酷な環境で住んでいるバクテリアは、大きくなり強くなる。


バクテリアレベルで、そうだという事は細胞の塊でできた人間でも同じ事が言えるだろう。


こんな怠けた生活から一刻も早く抜け出さなければ、僕も今以上に弱くなってしまう。


楽過ぎる生活は人を弱くするって事は、苦労をすれば強くなって変われるのだろうか?強いって何だろう?


『あぁ、昔は良かったな、しげちゃんが居たから全部しげちゃんの言う事ややる事を真似していれば良かったんだから。』


ひとつ目の記憶

僕がこの世に誕生して、思い出せる最初の記憶だろうか?


その頃隣の家に住んでいた3つ年上の“しげちゃん”という幼馴染みの思い出が最初の記憶だ。


それより前の記憶を何度探ろうと試みても、薄らと白い霧がかった音の無い映像からボンヤリと始まるのは、しげちゃんの後ろ姿の記憶だ。


夏の昼間なのだろうか、太陽が僕の真上から明るく照らしている。


二人はまるで兄弟のように僕はしげちゃんの後ろを、ちょっと早足ぎみでついて行くという記憶。


「ひろし、これ出来る?」


しげちゃんは、僕の最高のお手本だった。


僕はしげちゃんのやる事をすべて真似をしては、何でもすぐに出来るようになったらしい。


そりゃそうだ。まだ2歳や3歳の僕には難しいという感覚がまだ無かった。


目の前に、なんでも簡単にやりこなす、しげちゃんというお手本がいるのだ。


固定観念がないので僕にも出来て当たり前だと思っていたのだろう。


まだ4歳だった僕が自転車に乗れるようになったのも、しげちゃんのお陰だった。


毎日、しげちゃんが自転車の後ろを押してくれた。


僕の母がしげちゃんに聞いていた。


「しげちゃん、ひろしどう?」


するとしげちゃんは自信満々にこう言った。


「明日かあさってに乗れると思うよ。」


僕も何の疑いも無く、『もうすぐ乗れるようになるんだ』と純粋にそう思った。


しげちゃんが言うんだから間違いない。


そしてその次の日、「ひろしは真っすぐ前だけ見て漕ぐんだぞ!絶対に後ろを見るなよ、いいな!」いつものように言われた僕は、「うん!」と返事をして一生懸命ペダルをひたすら踏んだ。


しげちゃんが自転車を押してくれているという安心感の中、ただ前だけを見てひたすらペダルを踏んだ。


いつもより長く走っているので、『あれ?何かいつもと違う!しげちゃんの足の音も聞こえない!』と、後ろを振り向いた。


信じられない光景に僕は驚いた。


遥か向こうでしげちゃんが手を振っていた。


「お~い!ひろし~!やったなぁ~!」


僕は嬉しくて嬉しくて「やった、、、乗れた、、、乗れた、、、」と、つぶやいた。


初めての独り言なのだろうか今でもその時の事を鮮明に思い出せる。


しげちゃんの言う通りにしていれば何だって出来るようになるんだ。


自転車に乗れるようになった僕の行動範囲が少し広がった。


僕のすべては、しげちゃんからの“教え”でできていた。


僕はしげちゃんの事が大好きだった。


でも、そんなしげちゃんとの楽しい時も長くは続かなかった。


しげちゃんが、病気になってしまったのだった。


居なくなった先生

いつものように、しげちゃんを呼びに行った。


ドアをノックすると、しげちゃんのお母さんが玄関から出て来た。


「あぁ、ひろし君、、、しげちゃん今日ねぇ、お病気で遊べないの。」と、寂しそうに言った。僕はおばさんに聞いた。


「どんなお病気?」するとおばさんは、「お外で遊べないお病気なの。


ごめんね、また治ったら遊ぼうね。」


僕は、ガッカリして家に戻った。次の日も次の日も、しげちゃんは病気だと言う。


僕は寂しい気持ちでいっぱいだった。


それまでは、しげちゃんをお手本にしていたので、僕は何をやるにも不安になった。


誰かに頼っていないと、人は不安になるのだろうか?


自分だけでの判断は間違っているのではないかと不安になってしまう。


初めての事で僕は戸惑った。


その後、慣れ親しんできた、しげちゃんとの思い出がいっぱい詰まったその土地から僕の家族は引っ越しをした。


それを境にそれっきり、しげちゃんとは会えなくなってしまった。


天国に逝ったしげちゃん

新しい土地で、新しい幼稚園に通い、新しい生活の中、僕はその目まぐるしさからか、しげちゃんの事を忘れていってしまった。


あれだけ、しげちゃんが居なければ何も出来なかったのに、ずっと会えないでいる期間が続くと、いつまでもしげちゃんに頼っていては何も出来ない。


僕は不安の中、自分で判断をしていかなければならなかった。


しげちゃんの記憶が徐々に薄れていき、僕が小学1年生になったある土曜日の事だった。


僕のそれまでの人生の中で一番ショッキングな大事件が起こってしまった。


小学校の授業が半日で終わると、歩いて5分の家に帰った。


すぐに好きなテレビ番組を、母としゃべりながら観はじめたその時だった。


『リ~ン、リ~ン』


電話が鳴った。


この電話の音を聞いた瞬間、不思議な事だが僕はこの電話の内容が、すべて分かってしまった。


僕の心臓の音は一気にあがり、ドキドキし始めた。


「はい、もしもし足立です。」


母には電話の内容が何かまったく分からない様子だ。


母が「あぁ、こんにちは。」と、言ったっきり何も言わない。


僕はとても怖くなり、顔から血の気が引いて行くのが分かった。


「、、、ウソ?、、、ウソ?」


そう聞こえてきて母が突然泣き崩れた。


号泣して何を話しているのか聞き取れなくなってしまった。


取り乱している母を見て、僕の不安は的中している事が分かって凄く動揺した。


母が電話を切ると、僕に向かってゆっくり言った。


「、、、ひろし、驚かないで聞いてね、、、」


僕は、何も知らない振りをしながら、テレビから視線を母に移した。


ドキドキしながら、重苦しい胸の詰まる思いで母の言葉を待った。


「、、、しげちゃん、、、死んじゃったんだって!」


母は、そう言い終えると僕に泣きついて泣きじゃくった。


日頃強い母のそんな姿を見るのは初めての事だった。


ただただ戸惑い、どうしていいか分からず今まで見ていたテレビの内容を、必死でしゃべった。


何かしゃべってないと、どうにかなってしまう気がして怖かった。


なぜだろう、2年もしげちゃんに会っていなかったのに、電話の音が鳴った瞬間、しげちゃんが死んでしまったという内容だと分かったのは。


悲しくて泣きたかったが、母がそんな状態になり、僕は『今、泣いたらダメなんだ。』その感情を押し殺した。


そして人は死んでしまうんだという事を知り、とても怖くなった。


しげちゃんは白血病という病気だったとその時初めて母に聞かされた。


僕のお手本だったしげちゃんとは、これで本当に会えなくなってしまった。


『しげちゃんにもう会えない』と思うと、寂しさが何倍にもなって押し寄せた。


残った恐怖感

しげちゃんが死んでしまった。


『思い出ばかりが目に浮かんだ。』


しげちゃんは入院していたのだが、最後は家に戻り苦しまず眠るように亡くなっていったと聞かされた事が、せめてもの救いだった。


それとは裏腹に、小学1年生の小さな僕の体に大き過ぎる動揺が入り込み、それがずっと残ったまま僕の中からなかなか去ってはくれなかった。


何とも言えない初めて味わう重苦しいような感覚だった。


それからというもの、夜中に急に目が覚めるようになった。


起きると決まって『恐怖感』に包まれた。


目を覚ますと宇宙の遥か遠い彼方にポツンと独りだけ放り出されたような孤独感。


誰も近くには居ないような錯覚に陥りその独ぼっち感から一気に恐怖感に変わる。


『な、なんだろうこれは?』


寒くもないのに体中が震えだす。


ブルブル震えすぎるので、歯がカチカチと音を出した。


何しろ怖い思いで立て膝を着いて両手で太ももをギュッと握って恐怖感にひたすら耐えた。


僕はあまりの恐怖に母親の枕元に行く。


『怖い、、、怖いどうしよう。』


「ねぇ、、、ねぇ、、、起きて、、、」


母を揺り起こそうとするが、なかなか母は起きてくれなかった。


それでも母の体を揺すっていると母がやっとの思いで少し目を開けた。


「ねぇ、お母さん、怖い。」


僕は、そう告げると優しい安心する言葉を待った。


「怖い夢でも見たんでしょ?早く寝なさい!」、、、どんな母親だ。


子供が夜中に怖いと訴えて体を震わせて怯えているというのに!


子供ながらに『冷たい親だな』と、信じられなかった。


震えは何をしても収まらなかった。


立て膝のまま、ただただ母親の横で震えていた。


『なんでこんなに怖いんだろう、、、』


歯を食いしばって耐えるしか方法がない。


それは朝方まで続き、まわりが薄らと明るくなり始めて来た頃に震えは治まり、やがて恐怖感も嘘のように跡形も無く消えていった。


『なんだったんだろう?』僕は、その恐怖感が何か悪い病気だと思った。


その日以来、その症状はずっと長年続いた。


3回目あたりから、母を起こすのを諦めた。


毎回必ず台詞が同じ。


「怖い夢でも見たんでしょ?早く寝なさい!」だった。


『またこれか。もっと他に無いのかな?』


恐怖感の中、その母の冷たさがさらに孤独感が増してしまう事を知り、もう起こすのを止めた。


でも、猛烈な孤独感と恐怖感に襲われるので、すぐに母の枕元に行くだけは行った。


独りで耐えるより少しはましだった。


真っ暗闇の中、母の寝顔を歯を食いしばりながら震える体を跪き、その恐怖と震えが治まるのをひたすら待った。


その時、大体父親の闇を切り裂くような大きなイビキが部屋中響き渡っていた。


そのイビキを聞いていると、そのイビキもまた恐怖感を増幅する効果があり、僕は本当に怖かった。


誰にも頼れない小学1年生の僕は、この先どうしたらいいのかとよく考えていた。


この症状が治まる気配はまったく無かった。


その後、徐々に回数は減って行ったが30年以上続く事になるとは知らず、毎回怯えていたのだった。


『僕が弱いからなんだ』


そう思って、一生懸命耐えていた。


変身願望

僕は、しげちゃんを亡くしてから、無意識にしげちゃんのような年上で、お手本になる人をずっと探し続けてきた。


でも、俺の理想の『しげちゃん』はどこにも居なかった。


『居た!』と思っても最初だけで一緒にいるとどこか違っていた。


『これから僕は誰をお手本にして見習って生きて行けばいいんだろう。』


僕は真剣に考えるようになって行った。


それからさらにしげちゃん探しが始まった。


『しげちゃんだったら、こんな時どうするんだろう?』


しげちゃんが居たら僕は、こんな生活はきっとしていないだろう。


そう考えると、僕は再び『変わりたい』と強く思うようになった。


その気持ちを毎日持ち続けてモチベーションを保ってやろうと考えた。


変わりたい!と強く思っていれば人は変われるんだ、と思い込み毎日その気持ちを持ち続けた。


『絶対に今度こそ変わろう!絶対に!絶対に!』


ずっと保ち続けた。


保ってから1週間経ち、10日経ち、そして2週間経過した頃、再びその気持ちを保つ事が困難になってしまった。


俺は焦った。


『あれ?どんな気持ちを保っていたんだっけ?』


2週間必死で、その気持ちに意識を向けて常に心の中で『よし!!やるぞ!俺は変わるぞ!』とだけ思い続けてきたが、そこまでだった。


でも仕方ない、気持ちが消えてしまったものは仕方ない。


その2週間分でどれだけ変わったのか、とバカのようだが真剣にワクワクしながら自分に注意を向けてみたのだった。


『、、、、、?どこが変わったんだ?』


どこかが変わったはずだ、2週間保ったからその分変わっているはずだ。


でも、あきらかに変わってはいなかった。


『人は変われないんだ。』


心からそう思い愕然として落ち込んだ。


『俺は一生このままのダメ人間なんだ。』


その後、そんな事を考えつつも今までと同じ、先輩たちの居るたまり場へと足を運んでいたのだった。


変わりたい、変わりたいと思いながら。


その時ふと思った。


『ここに居たらダメになる。そうだここから出て独りになろう。』


そう思って、すぐに僕は住み込みの仕事を探し始めた。


脱出

意志が弱く、甘えてばかりで周りに流されて生きていた。


僕はこの環境から脱出したい、脱出しなければいけないと強く思った。


住み込みの職探しは主に大工や鳶だった。


探し始めて2週間経った頃、俺は岐阜県の各務原という地区にある大工の会社に電話をしてみたのだった。


「もしもし、あの、住み込みで働く事は出来ますか?」


すると向こうから「あぁ、できるよ。いつから来れる?大工の経験は?何才?」と聞いてきた。


僕は、質問に答えると「また電話します。」と電話を一旦切った。


『よし!思った程難しく無さそうだ。』


僕は、他に2件目星を付けていたので、その中から一つを選ぼうと思ったのだった。


その日の夜、いつものように先輩のうちには続々と悪い先輩達が集まって来た。


その中で、一番仲の良かった隣の中学で番長だった先輩にだけは話しておこうと、心のうちを打ち明けた。


「H先輩、俺住み込みで働きに行く事にした。ここに居るとダメになっちゃいそうでさ。」


すると、思いがけない言葉が返ってきた。


「何!?足立もか!!、、、実は俺も今住み込みの仕事を探してる最中なんだよ。そうか、お前もそうやって考えてたのか!」


と、その先輩もそんな生活から抜け出そうと決意していたのだった。


それからは二人で情報交換が始まった。


「おい、碍子屋で給料が良くて住み込みの所があったぞ」とか「先輩、大工の住み込みで1日8千円は?岐阜の各務原」そんな住み込みの職探しをしていると、毎日同じ事を繰り返していた時間がもったいないという気持ちになってきた。


一刻も早くここから脱出したいという気持ちが高まって行った。


そんなある日、その先輩が興奮気味に言った。


「おい足立、良い所があった。建設会社で給料も良いし、前借り制度もあるしおまけに重機の免許も取らしてくれるしここからも近い。そして二人募集してる。一緒に行こう。」


僕は考えた。


一緒に行って大丈夫だろうか?流された事にならないか?でも、僕の決断はその先輩と一緒に住み込みで働く事を決意したのだった。


その先輩も先を見据えて、この環境から出ようという僕と同じ想いを持っていたからだ。


同じ方向を見ている人と一緒ならお互い勇気が湧いてくる。


住み込み生活

僕と先輩は、住み込みで仕事を始めた。


先輩が先に出て行き1ヶ月程経った頃、呼ばれて僕も地元を離れた。


建設会社なのですべてが現場仕事だった。


道路を造ったり橋を造ったり下水道を敷いたりした。


もちろん、俺はまだ17才なのですべては見習いで助手。


土を掘ったり、掃除したり「あれ持って来い!」「これを片付けろ!」と言われた通り指示に従うだけだった。


でも楽しかった。


ワクワクしていて新しい人生が開けたように感じていた。


住み込み先は会社の事務所2階で、社長の奥さんが毎朝毎晩、そして弁当まで作ってくれた。


とてもいい人たちに囲まれて家族のように接してくれた。


僕たち二人は明るい未来を感じられない環境から一変、希望に満ちあふれた今まで知らなかった外の世界へと場所を移した。


それでも今までのたまり場にも1週間に一度、休みの日曜日顔を出した。


そこに集まる先輩達が『落ちぶれた人たち』に感じられた。


『良かった、、、俺は今までこんな所に居たのか』と、客観的に見るとゾッとした。


出る決意をして本当に良かった。


僕たちが1週間に一度しか行かなくなると、他の先輩達も一人、また一人としっかりした仕事に就き始めた。


僕たちがとった行動は、みんなの尻に火を点けた結果になった。


誰かがやれば、人はそれを真似する。


でも怖いから一人では何も行動を起こせない。


最初は楽しいと思っていた生活もそれが毎日続くと、いつか必ず陰りが見えて来ると知った。


その生活が当たり前になると、いつの間にか楽しいとは感じられなくなる。


楽しさは、辛さや苦労との比較で初めて楽しいと感じるのだろう。


それだけでは存在しないのだ。


あのダラダラした何も学ぶ事は無いだろうと思っていた生活の中からでも知らぬ間に学ぶ事ができていた。


その時には分からないだけで、人生のすべてに無駄はないのだろうか?新しい扉を開けた僕は、水を得た魚のように活き活きし始めた。


人は変われないのか?

住み込みで地元を離れた事が僕にとっての転機に繋がった。


今までの生活スタイルが変わった事で、心構えや考え方、そして行動も変化していった。

人は薄皮を剥くようにして少しずつ成長をしていく。


決してその時には気づかない。


過去の自分と今の自分を見比べてみた時に初めて気づくものだ。


目には見えない実感の無いゆっくりとしたスピードでしか成長は出来ない。


だからこそ歯がゆくて焦ってしまい、人はもがき苦しむのだろうか?でも、そのもがき苦しんでいる時、実は成長しているのかもしれない。


住み込み生活をおくり一年半程で、僕は実家に戻った。


かつての溜まり場は壊滅していたので、以前のようなダラダラした生活に逆戻りする誘惑も場所も無かった。


『意志も固くなっているはず、流される事はない』と思い込んでいたのだが、それが甘かったのだ。


その後、僕は地元の建設会社に勤める事になったが数ヶ月で辞めてしまった。


仕事がキツかったからだと思っていたが、住み込み生活の時のような頑張りが利かなかった。


『あれ?すぐ辞めちゃった。これくらいの事で何でだ?』


その後は職を転々とした。


学歴が無いので建設会社や土木関係の仕事ばかりを選んでいた。


給料もいいし、体を使う仕事は元々好きなので、最初はそれでいいと思っていた。


でも、どうにもこうにも頑張れなくなっていた。


それは実家生活になり甘えているからなのか?ハングリー精神がまったく無くなってしまっていた。


生活費も実家に入れなくても生活ができるのがダメなのだろうか?人は環境に左右されやすいみたいだ。


再び流される、、、

やがて、ひとつの建設会社に本腰を入れて就職した。


給料も他の同級生の中で一番多くもらっていた。


僕は、やがて、自分で建設会社をいずれはやって行きたい、と考えるようになって行った。


しかし、この思いはとても軽いフワフワとしたブレブレの決意だという事が分かる事が起きたのだった。


一緒に働いていた仲の良い人が、その会社を辞めてしまった。


そして、その人が次に入った会社が運送会社だった。


そしてその人が僕のところに来て、こう言った。


「足立くんも来いよ。一緒に働こう。楽で給料も今よりいいぞ。」


僕は、その言葉にすぐに反応してしまった。


簡単に揺らいだのだ。


少々、現場仕事で疲れていた事もあったが、独立を視野に入れていたのに情けない。


現場仕事のマイナス点ばかりを探すようになってしまった。


真夏の炎天下の中での仕事は体にこたえた。


朝起きるとよく、鼻血が出ている事もある程酷な毎日だ。


『トラックに乗るだけで、今よりも給料もいいのか。エアコンも効いて真夏でも涼しい。』


僕は、その言葉でまんまと自分の将来の夢をアッサリと捨て、職を替えたのだった。


これが、良くも悪くも、今後の僕の人生を大きく変わる瞬間になったのだ。

>第三章「パニック障害の発作とトラウマ、そして原因」へつづく


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足立博


中学中退という異例の経歴を持つ「小卒社長」。2000年にバリ島家具のフルオーダー専門店ROBIN、2004年にCANDy BLOODを開業。同時にインターネットマーケティングを学び各リアル店舗事業を成功させる。
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