足立博にとってのヒーロー「大阪浪商高校伝説の不良 牛島和彦さん」その1

足立です。


今日は僕の人生に多大な影響を与えた「ヒーロー」と言える「ある人」について書いてみたいと思います。


ネットビジネスやマーケティングという分野についてプロフィールにも書かせて頂いた通り、僕には3名ほど強く影響を受けた人達がいます。


その中には今も尊敬し続けているメンターと言える人もいますし、逆にその実力やノウハウ等は尊敬できるものの、人としては全く尊敬出来ないという人もいます。


ただ今日お話ししたい僕の「ヒーロー」はそんな仕事面での尊敬に値する人では無く、まさに「人生そのもの」において幼少期より強い影響を受け続けた人。


やがて大人になり、僕としては「運命的」とも言える出会いを果たしてしまった人。


そんな「ある人物」について書かせてもらいたいと思います。


マーケッターというよりは「クリエイターとして」、「男としての僕の生き方」に大きく影響を与えた人の話ですね。


その人物との「出会い」は幼少期にまでさかのぼる為、このお話しは少々長くなります。

ですのでこの記事は「僕」という人間に興味を持ってくれた人は是非お付き合い頂ければと思います。

ヒーローの出現

1979年、春夏の甲子園で世間の注目をぶっちぎりに集めた二人組が居ました。


大阪浪商のエース牛島和彦さんとキャッチャーのドカベン事香川さんのバッテリーです。

1970年7月13日生まれの僕は、その当時まだ小学三年生でした。


今のように世の中がまだ本当の意味での便利ではなく、コンビニも無い、インターネットもないウォシュレットも無い『甲子園がまだ甲子園』だったあの時代。


僕と同じ世代の人は分かると思いますが、あの頃の甲子園は今の甲子園とは違いました。

甲子園という存在そのものの比重がとても重い時代だった気がします。


現に今の小学生で甲子園を楽しみにしている子供はどれくらい居るでしょうか。


甲子園よりプレイステーション。


レンタルDVDさえも通り越してYouTubeやニコニコ動画という時代です。


当時は競合するものが並列してたくさんの選択肢がある今の時代とは根本的に時代背景が著しく違っていました。


甲子園で敗退するチームの悔しさや儚さといった感情に、一進一退になって共感したいと願う子供達が今どれくらい居るのでしょうか。


ただ当時の甲子園は僕たちに色々なものを学ばせてくれました。


「ただ共感する」ということだけで、それが自分以外の他者が経験したことであっても、その「共感」を今後の人生で活かすことができる能力。


僕はそんな能力が人にはあると思っています。


少なくとも僕は「甲子園」というものから、人がどんな時に悔しくて、悲しくて儚いのか、を教えてもらい客観的に人の感情を汲み取る事が少しはできるようになったと思っています。


例えば人は映画などを観ていく際もその映画の登場人物に自分の人生をダブらせて何かを感じる事が出来ます。


主人公が体験し学んだ教えを自分に当てはめ、その後の人生で活かして行くことができるわけです。


人はどんな物事かでも何かを学び、それを人生で活かすことができる特別な生き物なんです。


そしてこのような「感情の教え」をブラウン管を通して僕に教えてくれた人物。


それがこの時代の甲子園で一世を風靡した浪商のエースであった「牛島和彦さん」でした。


同時に牛島和彦さんは「カッコ良い男とは何か?」という事を最初に感じさせてくれた人でもあります。


こうして僕がそう感じているということは、僕と同世代の人達の多くもまた同じように感じていたのではないかと思います。


甲子園のスター大阪浪商高校、牛島和彦投手


ブラウン管から伝わる男気とルックスの格好良さ。


僕はそんな当時の甲子園のスター選手だった大阪浪商高校、牛島和彦さんに強烈に惹かれました。


その当時、牛島和彦さんに惹かれていたのは僕だけではなく、全国中の女性たちも牛島さんの魅力に取りつかれていたのです。


マウンド度胸が最高で、細い体にも関わらず大きな体の相手打者を文字通り『バッタバッタ』となぎ倒していく姿に、僕はテレビの前で声を上げて喜び大興奮していました。


大阪浪商高校と言えば泣く子も黙る有名な不良校で、その中でも牛島和彦さんは番長だという評判もあり、男性からの人気も女性ファンたちに負けない程でした。


その当時の日本中のスーパースターだった事は間違いないと思います。


ただ、僕にとってはスーパースターというだけの存在ではありませんでした。


僕にとって牛島和彦さんは絶対的な「ヒーロー」でもあったのです。


というのも僕は小さい頃から野球が大好きで、飛び抜けて野球が上手な年上の人に無条件で憧れていたのでした。


そしてそんな飛び抜けて野球の上手な人達の目指す先が「甲子園」だったわけです。


その甲子園で世間の注目を集めるだけでなく、記憶にも残るという選手はその絶対数から見ればそう多くはいません。


そんな人物に僕が憧れないはずが無く、その憧れの頂点に牛島和彦さんは君臨していました。


注目度ナンバーワンの牛島さんの姿はとてもクールで他の選手とは別次元に思えた事を僕は今でも鮮明に覚えています。


言うなれば「同じ土俵では戦っていない」というような感じさえしました。


まるで対戦相手の選手をまったく相手にしていないかのようなどっしりと構えた態度が格好良さに拍車をかけていたのです。


そんな勇姿を見た僕は物凄いレべルの衝撃を受けました。


小学三年生の多感な僕にとって牛島さんの存在自体が、まさに「スーパースター」であり、僕の中で牛島和彦さんがヒーローになるには全く時間を要しませんでした。



甲子園での牛島和彦さんの試合は名古屋市千種区のいとこの家でいつも観ていました。


牛島さんの居る大阪浪商高校の試合以外は、いとこの家の前でキャッチボールをしながら『浪商の試合まだかなぁー』と、僕の気分はいつも高まっていました。


伯父さんが、「おぉ~い!浪商の試合始まるぞ~!」と大声で教えてくれると、一目散に階段を駆け上がりテレビの前の目の前に座って甲子園のサイレンを聞いたものです。


まるで自分がマウンドの上に牛島さんと一緒に立っている気分で物凄くドキドキしていました。


そんな目の前のテレビには牛島和彦さんのアップが何度も映し出されます。


手に汗握り時には力が入り一緒に投げている気分になる程、全身で応援しました。


大阪浪商高校点が入ると自分の事のように嬉しく、その中でも僕がとくに嬉しかったのは牛島さんがバッターから三振を奪っていく事でした。


相手打者が塁に出ると本当に心配で対戦相手に『点が絶対に入れられないように、、、!!』と子供ながらも、手を合わせて祈っていました。


・・・と、ここから宿敵である箕島高校との決戦までの軌跡を僕の当時の感情を交えながら書くつもりでしたが、それを記事にしていくとあまりにも長い記事になってしまうため、この記事では断念しておきます。


当時の高校野球ファン、牛島和彦さんファンの熱意要望があればメールマガジンの方ででも(笑)


ただ牛島和彦さんは結果として夏の甲子園も春の甲子園も惜しくも優勝を逃しました。


その事には僕もガッカリしたものですが、その当時を振り返って今想う事は「優勝を逃した」という経験で味わう悔しさなどの感情は、牛島和彦さんにとってもそれを自分の事のように感じていた僕にとっても、その後の人生には大きなものをもたらしたと思っています


「負け」という貴重な体験を知らずして、悔しさを経験する事なく社会に出てしまう甲子園児の方が、人生につまずいた時の事を想うと、とても心配になる事があるからです。


「負け」がゼロのまま優勝したチームの選手が社会に出てつまずいた時に受けるであろう代償は計り知れません。


そうこうして1979年夏の甲子園が終わると、僕はすっかりと気が抜けてしまいました。


『もう、甲子園での牛島さんを見る事が出来ないのか、、、』


僕はそう思い、夢中になれるものを1つ失ってしまったような気がしていました。


しかし、その落胆した思いはまたすぐに「熱狂」へと変わっていったのです。


牛島和彦投手、中日ドラゴンズドラフト1位でプロ入り


その年のドラフト。


牛島和彦さんが中日ドラゴンズにドラフト一位で指名されたのでした。


ただ、、、その熱狂の反面、大の巨人ファンだった僕としては、それはただ素直に喜ぶ事は出来ない事でした。


それでも僕が牛島和彦さんの大ファンである事に代わりはなく、その数年後には巨人戦で牛島和彦さんが投げると、その時だけは中日を、と言うか牛島和彦さんを応援しました。


実際のところ、僕のような人はたくさんいたのではないかと思います。


ただそこから数年後、更に信じられない事が起こったのです。


あろう事か当時の中日ドラゴンズの監督の星野仙一監督が、パリーグのロッテに居た落合博満選手との大型トレードで、牛島和彦さんを出してしまったのでした。


「馬鹿やろう!星野!パリーグに行ってしまったらテレビで牛島さんを観る事ができないだろうが!」


僕は実を言うと元々この星野仙一という監督が大嫌いでした。(その後、星野仙一さんのドキュメンタリードラマをテレビで観た際は普通に好感を持ってしまいましたが(笑))


ただ僕が星野仙一監督を大嫌いだった事にはトラウマとも言えるある理由がありました。


と言うのもと、その昔、当時の中日ドラゴンズの現役投手だった星野仙一さんが、腰を痛めて「イノコシ外科」という名古屋市内の病院に入院して居た際、たまたま僕も膝に怪我をしてその「イノコシ外科」に通院していたのでした。


そんなある日、膝の溜まった水を抜き、あまりの痛さに泣いて居た僕の所に、たまたま通りかかった星野仙一さんが来て、「おい、何で泣いているんだ?」と聞いて来たので、訳を話すと「男は親が死んだ時にしか泣くな!」と言って僕の頭をブッ叩いてきやがったのです!(笑)


巨人ファンの僕にとっては、まさに敵対するチームのピッチャーから受けた「虐待」でした。


訴えてやろうか、、、(嘘)


それは小学一年生だった僕が星野仙一さんを大嫌いになる原因としては、もう十分過ぎる理由になってしまったわけです。


そんな星野仙一が牛島和彦を落合博満とのトレードに…。


「星野仙一の野郎、、、」


この時、そう思った人は全国にはたくさん居たと思います。


しかしその大型トレードは成立。


牛島和彦さんが投げる姿をタイムリーで観る事はほとんど出来なくなってしまい、僕の青春時代のスーパースターであり、ヒーローであった牛島和彦さんとのテレビを通しての繋がりは突然にその幕を閉じてしまったのでした。


牛島和彦さんの引退。

こうしてテレビで観る機会を奪われてしまい、情報が極端に少なくなってしまった事もあり、牛島和彦さんはオールスター選抜でたまに観るだけの存在になってしまいました。


それでもプロ野球選手としても大成功していった牛島和彦さん。


プロ野球界にも様々な業績を残し、ロッテでそのプロ野球人生に有終の美を飾ったのでした。


牛島和彦さんが引退し、僕も年を重ね年齢だけは大人になりました。


それでもあの時の甲子園でのヒーローの姿は、決して色あせる事なく、僕の胸に焼き付いています。


そんな牛島和彦さんが「憧れの存在」であり「僕のヒーロー」である事に今も変わりはないわけです。


牛島和彦さん、横浜ベースターズの監督に抜擢


その後、牛島和彦さんは度々、野球解説者として姿を見せてくれました。


他の解説者とは目の付け所が違い、選手の本質や心理、その時の選手の心境などについて的を得た解説をしてくれる牛島和彦さん。


決して上っ面では無い深堀りした部分を解説をしてくれる牛島和彦さんに、大人になった僕はまた更に取り込まれたのでした。


『この人は物事の本質を分かっている「本物」だ。』という情報が僕の頭の中の『牛島和彦さんとは?』という項目に上書きされていったわけです。


そして、更に数年の月日が経ち「牛島和彦さんが横浜ベースターズの監督になる」というニュースが流れ込んできました。


『やった!!』僕の心は踊り出しました。


それがどのチームだろうが問題ではありませんでした(欲を言うとやはり巨人というのが本音でしたが(笑))。


僕は純粋に牛島和彦さんの監督する姿が、牛島和彦さんが作るチームが、そして牛島和彦さんが率いるチームがどう成っていくのかを観たかったのです。


本質を分かっている人がリーダーになる。そこに大きな興味があったのでした。


これはもはや「野球」と言う枠の中では無く、牛島和彦さんの「人間」としての生き様が観たいと思ったのです。


もはや僕にとって横浜ベースターズの勝ち負けはどうでも良い事でした。


牛島さんがどう感じ、どう動くのかに注目し続けたのです。


161キロを投げたクルーンの映像を観ただけで、「このクセなら修正が可能だ」という事を見抜き、チームに入れてクルーンを再生させた話は有名だと思います。


牛島和彦さんが監督になると、今まで知り得なかった牛島和彦さんの人間像が、そのゲーム展開での選手の采配などから、おぼろげながらも垣間見える気がしました。


やがて横浜ベースターズは最下位からAクラスにまでランクUP。


しかし、後に牛島和彦さんはこう語っています。


「あれは俺の力じゃない。たまたま他の強いチームが負けての偶然の結果だった。」


この謙虚さからも牛島和彦さんの“潔さ”と“信頼できる人間像”は容易に想像できると思います。


しかし監督二年目のシーズン中、牛島和彦監督が成績不振が原因で責任を取って監督を辞任するというニュースが流れました。


そして僕は、またしても牛島和彦さんをテレビで観る機会を失ってしまい、その後の野球解説は、たまに偶然ラジオで聴く事がありましたがテレビでは「サンデードラゴンズ」という名古屋のテレビ番組でしか牛島和彦さんを観る事ができなくなってしまったのでした。


牛島和彦哲学。


そんなある日の事でした。


僕の日頃の行いが良かったせいなのか(笑)、神様が僕と僕の絶対的ヒーローである牛島和彦さんとの距離を急激に近付けてくださるという事件が降り注いだのです。


その「事件」というのはモデルをしている僕のお店「CANDy BLOOD」の田中ミキが高木盛道さん(現在中日ドラゴンズの監督)と、牛島和彦さんと共に「メガネの和光」というブランドのイメージキャラクターに起用される事になったのです。


このメガネの和光さんのポスターの撮影がある日には、毎回僕は牛島和彦さんへの質問をミキに託したのでした。


聞きたい事は数え切れない程たくさんあり、牛島和彦さんの考え方や生き様に物凄く興味があり関心があったのです。


それこそ牛島和彦さんがプロ野球選手現役の時には勝敗に関わらず関心がありました。


勝った時よりも負けた時のその事に対する牛島和彦さんの考え方や感じ方、牛島和彦さん自身の反省点はどういう所なのかという点に関心がありました。


そしてその経験をどう活かして行くのか、活かしてきたのか。


そういうところに深く興味があったのです。


勝った時よりも負けた時の牛島和彦さんの、「負け」というものに対するその乗り越え方などから何か大きな物事を学ぶ事ができるのではないかと感じていたのでした。


勿論これは牛島和彦さんに限った事ではないかもしれませんが、何か物事を学んでいく時には「成功」から学べる事より、僕は失敗から学べる事の方が多いと思っています。


何より多くの人は勝った人や成功をした人よりも、一生懸命やって負けた人の生き様や、それまでの格闘した形跡を見て共感するのではないかと思うのです。


そんな僕の質問に牛島和彦さんは、ミキを通して快く答えてくれました。


その牛島和彦さんの言葉をミキがノートに書いてきてくれたのです。


これは僕が間接的にでも牛島和彦さんと繋がった瞬間でした。


牛島和彦さんの答えは、明快で分かりやすいだけでなく、そこに至ったプロセスやロジックについての考え方が哲学的でもありとても興味深く面白いものでした。


それはまさに「牛島和彦哲学」という学問の学びを受けているような感覚でした。


その後も撮影がある度、牛島和彦さんへの質問をミキに託し続けた僕。


ある日、いつもの様に僕からの質問に牛島和彦さんが答えてくださり、それをミキがノートに書いていると、牛島和彦さんがミキにこう言ったそうです。


「毎回大変やろ?彼と電話で話そうか?その方が早いやろ?」


すると、近くに居たヘアメイクさんが、「彼にここに来てもらえば?」と、言ってくれたのだとか。


するとミキは、すぐに僕に電話をして来てその場の経緯を僕は聞いたのです。


「どうする?牛島さんと直接話す?それか、今からスタジオに来る?」


僕はちょっと考えたてこう答えました。


「ん~、、、やめておく。」


それは決してただ緊張してしまったのではありません。


牛島和彦さんとこんなにも簡単に会ってしまってはいけないと思ったのです。


スーパースターでありヒーローでもあった雲の上の存在であり、別次元の人。


直に会ってしまうというには、僕にはあまりにもその存在が大き過ぎると感じたのでした。


会ってはいけない存在。


その時の僕はそう考えた節さえあると思います。


ただ、もしも本当に「会う事」が宿命であるなら、その機会はまた訪れるはずとも考えました。


とは言えそんな機会を期待することはありませんでした。


しかしそれから一年弱が経過したある日の事です。


僕が期待するはずもない、その「宿命」が来るべくして僕のもとに訪れたのでした。


足立博にとってのヒーロー「大阪浪商高校伝説の不良 牛島和彦さん」その2へ続く。


>足立博にとってのヒーロー「大阪浪商高校伝説の不良 牛島和彦さん」その2

“足立博にとってのヒーロー「大阪浪商高校伝説の不良 牛島和彦さん」その1” への1件のフィードバック

  1. 大川由美子 より:

    香川さんの死去のニュースで牛島さんの事を検索してたどり着きました。何だか懐かしい気持ちで一杯になりました。
    そして未だに野球ファンの私としては再び牛島さんのユニフォームみたくなりました。

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Hiroshi Adachi

足立博


中学中退という異例の経歴を持つ「小卒社長」。2000年にバリ島家具のフルオーダー専門店ROBIN、2004年にCANDy BLOODを開業。同時にインターネットマーケティングを学び各リアル店舗事業を成功させる。
>足立博プロフィール・経歴


物販事業経営者、アフィリエイター、マーケッターが集まるHiroshi Adachiのブログの運営を開始。クリエイターとしての活動の傍らマーケティングアフィリエイターとして情報発信中
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